こんにちは、やじです。
今日の「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」では、ウズベキスタンのナヴォイ劇場を建設した永田行夫大尉と日本人捕虜の物語が紹介されるようです。
なんでも、そのナヴォイ劇場が、ウズベキスタン人の命を救ったそうなんです。
やじは、2年前までは、「日本人捕虜のシベリア抑留」については歴史の授業で学んで知っている程度でした。
しかし、あることをキッカケに「シベリア抑留」がとても身近に感じられるようになりました。
1 永田大尉と日本人捕虜がナヴォイ劇場を建設の経緯は?
2 ナヴォイ劇場がウズベキスタン人を救った?
3 ウズベキスタンが親日国なのは彼らのおかげ?
4 やじまとめ
調べたことをまとめましたので、どうぞご覧ください。
1 永田大尉と日本人捕虜がナヴォイ劇場を建設の経緯は?
1945年8月、玉音放送を受けて日本人が降伏し第二次世界大戦が終わった年の10月。
ソ連軍が中国にいる日本兵に「帰国させる」ことをにおわせる嘘をついて、日本兵捕虜をシベリアや中央アジアに連行しました。
これは、ソ連軍の国際法違反で日本では「シベリア抑留」として歴史で学ぶことです。
永田大尉一行は1か月半もかけて4,000キロ離れたタシケント市に連れていかれ、「ソ連の革命30周年にあたる1947年11月7日までにオペラハウスを建設する計画」に従事させられることになりました。
飛行機で9時間~11時間かかるこの距離を当時のレベルの貨物列車で移動って…。
それだけで半端じゃなく過酷なのがわかりますよね。
ここで永田大尉は、18歳~30歳までの457名を指揮する立場になったのです。
シベリアの寒い気候に加え、食事や衛生環境などが十分でない過酷な環境の中での作業でしたが、永田大尉をはじめとする日本人捕虜は、全員無事に生きて帰るということを目標に勤勉に働きました。
そしてついに、見事、ナヴォイ劇場を完成させたのです。
2 ナヴォイ劇場がウズベキスタン人を救った?
このナヴォイ劇場があるタシケント市は1966年4月26日に直下型の大地震に襲われました。
地震の大きさマグニチュード5.0と大きくはなかったそうなのですが、震源が地下3~8メートルととても浅く、余震が1000回以上も続いたために甚大な被害を受けました。
この地震で、約36000戸の住宅と公共構築物が倒壊したそうです。
このタシケント市にはナヴォイ劇場もありましたが、これだけの大きな被害を出した地震の中、なんと、ナヴォイ劇場は無傷であって、タシケント市民の避難場所としても機能したそうです。
地震が起きたときに、咄嗟にナヴォイ劇場の広場に逃げようと考えたのは、「大きな地震が起こったら、家が倒れて逃げられなくなるので、広場などに避難した方が良い」と日本人抑留者からきかされていたからなんだそうですね。
地震大国「日本」の知識が、役に立ったんですね。
3 ウズベキスタンが親日国なのは彼らのおかげ?
永田大尉率いる日本人抑留者一行は、現地のウズベキスタン人とからも尊敬されています。
例えば、配給された食事をみんなで分け合ったり、
作業をする時に「せーの!」という言葉をかけて力を1点に集中させるなどの日本人の「和」の心をソ連兵に説いたり、
地元の子供やご老人からの差し入れに、ちゃんとお返しをするなど、過酷な環境下でも礼儀を忘れなかったり。
勤勉で、地震にもびくともしない、ウズベキスタン人の命を救ったナヴォイ劇場を作った日本人。
この日本人伝説が、ウズベキスタン国内はもちろんのこと、周辺各国にも知れ渡って日本は人気のある国になったそうですね。
4 やじまとめ
冒頭に書きましたが、実は、ヤジの祖母の元夫は日本兵捕虜としてシベリア抑留中に亡くなりました。
祖母は元夫は、戦争中に満州にわたりました。
終戦後、祖母は命からがら日本に帰ってきました。
しかし、元夫はそのままシベリアに連れていかれてしまったのです。
祖母は日本に帰国後、夫の生死がわからぬまま、別の男性と結婚しました。
そうしないと生活できない時代だったんですね。
そこで再婚した相手というのが私の祖父です。
そして、その祖父と結婚した後に、シベリアに連れていかれた元夫が現地で亡くなったことを知ったようです。
この話は、祖母から直接聞いたことはありません。
戦争中に満州に行ったということは聞いていたのですが、その後のことは聞いていませんでした。
祖母が亡くなり、祖母の家の遺品整理をしているときに、押入れの奥の方から、シベリアで亡くなった元夫の「遺爪」と呼ばれる爪が見つかったのです。
遺体は運んでこられないので、爪が送られてきていたんですね。
今でも、祖母の元夫はシベリアの墓地で眠っています。
その遺爪に記されていた名前をネットで調べてみると、抑留先で亡くなった日本兵のリストにありました。
再婚した祖父には言えなかったのか。
それとも、祖父は知っていたのか。
祖母が亡くなってしまった今、それを知るすべはありません。
このような先人たちの努力の上に、
そして、先人たちの築き上げたモノの上に生きていることを忘れてはならないことを再認識しました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
詳細なお話を知りたい方は、こちらのサイトに詳しく載っています。